I don't know what did American Railroad companies had been using by then but Japanese uses Abacus to calculate things. 23:29 Freight Pricings. What are 'Barubu/Barupu' actually? next to 'Cement' ?
Early (1900-1930) hump yards in the US used *hump riders* as well, I can't remeber but I think one of the first US hump yards to use retainers was on the New Haven I think in the very late 1920's/early 1930's.
突放で足無くした知り合いのことや、通学の時に汽車の釜炊きして運賃チャラにしてもらった記憶が蘇りました。
貴重な映像をありがとうございます。
貴重な映像、ありがとうございました。貨車の突放、人力でのブレーキ操作、これらは幼い頃には日常的に駅のヤードでみられましたので、懐かしいです。昭和は遠くなりにけり、です。
貴重な映像ありがとうございます。危険を伴う作業にたくさんの鉄道マンが携わっていたんですね。本当にご苦労さまです。
去年まで運送屋さんでトラックの運転手やってたので、たまに隅田や東京ターミナルに、荷物をコンテナに納めたり、受け取りに行ってました。今も同じような仕事内容ですけど
貨物がコンテナになったので、組み換えしないで、横から大型フォークでコンテナ降ろしてますけど、やっぱり今でもコンテナの扉に封印巻いてますね
私の父がた母がたの祖父が鉄道の仕事に従事していました。
特に母がたの祖父は、旧国鉄で働いていましたので、こちらの動画が当時の祖父も従事していたと思うと感慨深いです、貴重な動画ありがとうございました。
貴重な映像ですね‼︎
昭和の40年代頃までは、このような貨物列車が走っていた記憶があります‼︎
今のようにコンテナになったのは、いつ頃からかは分からないですが…
昭和16年に既にこの複雑なハンプの運用がされていたことに驚きました。
危険を伴う貨車のブレーキ操作係の人たちの仕事も必要だったのですね。
9:35 貨車にねじ式連結器の緩衝器を外した跡があります。
1925年の一斉自動連結器化以前から稼働していた貨車ということです。
今日ではほぼ見られない旧式車両であり、興味深いです。
緩衝器を撤去した後が残っている車両は 8:25 で写っている、トム1形式トム271号貨車だと思います。
一つの貨物列車を運行するのに大量のマンパワーが必要とされていて、現在それが大きく省人化されたことがよくわかる
功罪はあるだろうが技術進歩に驚き
1つ1つの作業がすべてアナログで何かするたびに人手を必要とするシステム
しかも登場する人物すべてに人件費や労務の手間がかかってきてる
こんな事やってたら利益なんか出ずに赤字になっちゃうのは当然ですね
現代の物流も末端はマンパワー頼みにもかかわらず
人件費やら設備費やら削りに削りつくして骨抜きの人手不足(笑)
@@2347394 運送業界の人件費カットはひどいですねえ…
中曽根政権期の規制緩和で業者が激増した結果、コストカット競争が起きたとのこと…
簡単にいうが、85年前ともなると今とは
集計
通信
集積
が桁違いであり、また遠距離と大量輸送は船と鉄道しか運べなかった時代だからコレでも最先端技術なんである。
伊達に「ワム」とか車両識別に略称つけてた訳ではない。
効率を図る間もなく押し寄せる物流を捌いていた力量とソレをこまめに集計見積りしている事こそ驚くばかり。
この映像は、大変貴重ですね。かつての国鉄時代の貨物列車ドキュメント、そして、全ての車番、形状、積み荷等々、検査してからの出発。更に、貨車での飛び乗り、飛び降り、操車場でもそれによる災害事故がかなりあったそうです😅
1つ1つの作業がすべてアナログで何かするたびに人手を必要とするシステム
しかも登場する人物すべてに人件費や労務の手間がかかってきてる
こんな事やってたら利益なんか出ずに赤字になっちゃうのは当然ですね
当時の安全規則はユルユルだったんでしょうね。 列車が接近しても、作業員は間近で平然と作業をしてますし、線路を横切るにしても指差確認もやっていませんし...。
今は列車が通過するまで作業をストップするのはもちろん、作業者は全員右手を上げて合図する規則になっていますから、過去の幾多の災害が教訓になっているのは、言わずもがな...ですね。
懐かしい貨物列車ですね~D51がワム、トラなど2軸貨車を牽引、昔中央西線や稲沢操車場でよく見ていました。貨車の仕分けはハンプで行われて、貨車が丘の上から転がってカーリターダーの上を通して編成に送られていました。入れ替えはÇ50型やDD13が行いました。
国鉄時代は多種多様な貨車があって面白かったですね、今じゃ貨物ターミナルに行ってもコンテナ車ばかりですっかりつまらなくなりました。 家畜車は図鑑でしか見た事がなく、無蓋貨車は私が物心がついた時には、全部トラかトキの二種類だけになっていて、トムの実車は見た事がありません。
私も若い頃、塩浜操車場(神奈川臨海鉄道)で水江線、千鳥線、浮島線の入換や、出線前の組成の平面入換(個別に突放や、出線の推進 押込み) 到着列車の方面別分解のハンプ(ヤックシステム)で 連結、操車を担当して居た過去を思い出しました。
19:25 タブレットが受器に入った瞬間や、機関助士(もしくは機関士か?)が何かをさけぶ表情をストップモーションにしているのは、当時の映画としては斬新に感じます。
碍子がたくさんついた鉄道用電信柱(通称・ハエたたき)が映っているのも、興味をそそります。
1941年の作品を2023年
初めて視ました。82年前。
これが戦前の国鉄貨物列車システムですか。中々貴重な映像ですね!
1つ1つの作業がすべてアナログで何かするたびに人手を必要とするシステム
しかも登場する人物すべてに人件費や労務の手間がかかってきてる
こんな事やってたら利益なんか出ずに赤字になっちゃうのは当然ですね
詰襟の制服、ダブルの羅紗コートがカッコいいですね。
家畜車ウなんて幼児の頃たった一度だけ見たな。その後レアな貨車としては通風車ツム、冷凍車レテあたり。
側線に廃車待ち留置されている陶器車ポムを1度だけ見た事があります。
貨物を牽引し、線路の上を力強く煙を吐き威風堂々と雄叫びの様な汽笛を鳴らし蹂躙するD51は黒き英雄の名に相応しい。
現役で活躍している姿は保存車両にはない逞しさを感じます。
平成初期まで勤務先もパソコン等がなく、会社の日計、月計等も全部手作業で作ってたなあ。
だから間違いもあるし、縦計と横計が合わないとかあったなあ
平成初期に汎用機オペからの社会人スタートでした。名前を言えば誰でも知っている機械系の大企業への常駐でしたが、そんな会社でもパソコンは1つの課に1~2台しかなく、あとは庶務の人が書類清書用で使う縦モニターのワープロ(オアシス)がある程度でした。汎用オペ業務の合間にパソコンの調子が悪いとの連絡を受けて都度直していたら、いつの間にかそちらが本業となり、以来30余年、MS-DOSから始まりWindows11までずっとPCのキッティングをやり続けています。
曾て、御茶ノ水駅附近に在った、交通博物館の映写室で観た映画です! 懐かしい。
06:55 多分当時は秋葉原を「あきばはら」と言ってるような気がします。
まだ大型トラックによる長距離路線便(定期便)がない時代。鉄道しか長距離輸送を担う手段がなかった時代の話ですよね。
凄いの一言です🎉
小口輸送も郵便くらいしかなく、駅には大抵秤と台車のある荷受け引き渡し窓口もあったもんです。
そもそもが荷物は家に届けられるのではなく駅や郵便局に受け取りに行くものでした。
(郵便小包はありましたが制約も多い)
効率が悪いだ赤字の権化だ好きなこと言ってるレスもありますが、それだけ国鉄がなんでもやらなければならなかった時代というものがわかってない。
凄い、現在のイーコマースで働いてる、倉庫で働いている連中よりも、仕事が出来ている。
こう言った 習俗 慣習を壊してきた罪は大きい、かくいう明治生まれの爺さんも鉄道職員で通信士をしてました。
昔は 人も歴史も素晴らしかった。
1941年の書類は今と同じように左から右に書くようになってるんですね(鉄道局の看板は右から書かれてます)
あと、電話交換手の女性の言葉は上品な山手言葉で、お嬢様感に萌えてしまう(^o^)/
当時で言う「職業婦人」ですね。タイピストと電話交換手は、当時の女性の花形職業でした。
この二三年後、戦争で男性の働き手が少なくなると、女性の転轍手や運転手が登場します。
当時の横書きの書き順はけっこう場面場面で変わっててけっこう紛らわしいです。読まないと解らないほど。
大正くらいまで原則文章は縦書きだったので、看板などの横書きも右から読んでましたが、
英数文字を織り込んだりすると縦書きでは都合が悪いケースがかなりあったようで、その場事情で右からだったり左からだったりしていました。
要検証ですが、英数文字や数図式などが絡むと横書きでも左から書いていたようです。
〜まず横書き自体があまり生活で使われず、看板とかでも明治少し経つまでは屋根上でなく軒先に立て看板を使ったので、横書き自体が近代の書法とも言える。
ハンプ式操車場の仕分の様子がよくわかる映像ですね
17:45 このシーンは好きですね。これを見ると「頑張れ」と応援したくなります。
大宮(操)出発シーンらしい
現車40両換算55懐かしいな!昭和50年代まで続いてたんだね!
21:15
いろはの、い
ローマの、ろ
はこねの、は
にほんの、に
ほけんの、ほ
なんか面白いw
操車場自動化やパレット荷役で一部合理化されたとは言え基本的にはこの時代と変わらないやり方を分割民営化直前まで続けてんだよなぁ。
1つ1つの作業がすべてアナログで何かするたびに人手を必要とするシステム
しかも登場する人物すべてに人件費や労務の手間がかかってきてる
こんな事やってたら利益なんか出ずに赤字になっちゃうのは当然ですね
我が最寄り駅にも貨物専用のプラットホームがあり、荷物担当の人が働いているそばで見て
(邪魔して)いたよ。 よく怒られたがたまにお茶の頃(休憩時)せんべいを貰っては食べたな。
凄いチームワークですね。
一人でもトロい奴がいたら仕事になりませんね💧
基本的に、当時、鉄道省に勤めるのは、ステータスだったと思う
ただ、全員が優秀で勤勉かというと疑問だなぁ。。 コネで入った感じのバカ面ぼんやりくんも、散見されるし、
タバコくわえながらふてぶてしく作業する態度の悪い輩もいるからなぁ
撮影の為に選んでる筈だろうに、カスが写ってしまっていることを踏まえると、6がけくらいで見たほうがリアリティがありそうだな
萌えキャラ「鉄道むすめ」には無理。
まだこの頃は突放が
当たり前だったのか…
(突放とは、
昔の貨物駅で貨車の
入れ替えのために使われた方法、
駅に着いた貨車は
後ろから機関車を連結し、
そのまま押していっている途中に、
貨車に掴まっている作業員が
連結を外し、無動力で動かして
それぞれの番線に持っていく方法、
他にハンプという坂を用いて
仕分ける方法もあったが、
どちらも危険な為、
現在は一部の鉄道でしか
行っていない。
代表的な物に三岐鉄道の
貨車の突放がある。
また、貨車の上に荷物が
固定されていないコキ(コンテナ貨車)は
荷物が飛び出したりして危険(おそらく)
なため、突放が禁止されている。
16:58 手歯止め使って
強制停車させていたから
貨車のフラッターは凄かったんだ
多くのムダに雇用の場が!現在は雑巾を搾り過ぎて
正規従業員の雇用が この時代と比較し少なく 非正規従業員が
多くなった気がしますね!
昔は機械化が進んでなかったからね
非正規は経営者の怠慢の結果だよ
自分たちの懐を増やすために安直に考えた結果が大変なことになってる
自分さえもうかりゃいい、本当に経営者を辞めてくれ
従業員がいてこそ経営者は生活ができるし懐が増える
無能経営者が考えたシステムは国を亡ぼす結果となる
この景気の悪化はすべて経営者の責任、政治家もな
1つ1つの作業がすべてアナログで何かするたびに人手を必要とするシステム
しかも登場する人物すべてに人件費や労務の手間がかかってきてる
こんな事やってたら利益なんか出ずに赤字になっちゃうのは当然ですね
こうして古い映像を見ると、1984年のヤード集結型輸送の一斉廃止は、非効率を見限られた他、コンテナによる拠点間輸送があまりにも便利だったことも理由として大きいのではと感じます。
もし、コンテナおよび拠点間輸送の発達が遅れていたら、ヤード集結型輸送の一部が拠点間輸送の性格を成すような形に変化して現代まで残り、EF210などのJR釜が黒貨車行列の先頭に立つと言った時代錯誤な光景も展開されたかもしれませんね(^^)
コンテナ自体は大正期からあったのですが、ソレを使う業者がなかったほど大量一括輸送のニーズがなかったという事です。
今主流の小口配送なんか殆ど郵便と日通くらいでそこの領分まで国鉄がやっていたので非効率でも裁かなくてはなりませんでした。
貨物自動車が昭和後期になってやっと物流に使える様になって小口配送業が民間に出来て、昭和末になって『仕事を奪われる』格好でコンテナによる大量高速輸送が主流になれた訳です。
輸送形態の変化が貨物輸送の変化にも
現れていると言う事なのですね。
高度経済成長による物流の増加を見ると、
拠点間輸送の発展は必然に思いますね。
JRFの歴史が垣間見えました。
鉄道省(Mnistry of Railways)では?
JR貨物のルーツという事でしょうかね。
解結通知書は懐かしい言葉ですね。
操車場(ヤード)からハンプした際、貨車の速度をやわらげるのに、クサビで止めでたのですね。この時代は。カーリターダーは、戦後になってからの装置なのでしょうか。
カーリターダーが整備されたのは戦後ですね。記録映画「思い出の70系、80系電車」「ある断面図 電気と鉄道」を見る限り、昭和20年代後半以降のようです。
戦前だから、
点呼前に神棚崇拝、
会議は咥え煙草に耳鉛筆、偉い人はちょび髭
D51イケメソ
イケメソ…🤔
最初の方の貨車から荷下ろしする人たちが歌っている歌? はなんて歌なんだろ。それとも単なる掛け声? それと丸太の貯木場への投入の仕方がw 今じゃ考えられないが当時はこんなのが当たり前だったんでしょうね。ご安全に…。
3:10以降の小口荷物積み込みの場面でしょうか?これは歌や掛け声ではなく、荷物の行き先などをはっきり聞き取れるように読み上げているようですね。
戦争前は車掌車(緩急車)に3人乗務していたんですね、
車掌車の形ってあんまり変わってないんですね。
コンテナ貨物列車による拠点間直行輸送に比べると、絶望的に効率が悪いな…。
1つ1つの作業がすべてアナログで何かするたびに人手を必要とするシステム
しかも登場する人物すべてに人件費や労務の手間がかかってきてる
こんな事やってたら利益なんか出ずに赤字になっちゃうのは当然ですね
そりゃ民間輸送会社がまだ地域零細の荷役でしかなかった訳で、ソレまで国鉄が賄ってた訳ですから。
来る量も半端じゃないし捌くのが先でした。
共産主義ではないのに何故か似た物があるような気がする。
良くも悪くも雑な出し入れだったんだな笑
寧ろ平成・令和が真面目過ぎるのか?
I don't know what did American Railroad companies had been using by then but Japanese uses Abacus to calculate things.
23:29 Freight Pricings. What are 'Barubu/Barupu' actually? next to 'Cement' ?
Looks like pulp, the name of a category for reporting purposes
懐かしの家畜車、ウは
牛、
実は牛は家畜車(カ)で運ばれる。豚は別途豚積車(ウで由来はブウのウとも)です。いずれにしても冷蔵冷凍技術が発達する前はトンカツや牛丼やステーキの材料を生きて運んでいたわけです。
おお!さりげなく突放してるやん!吹操みたいやな?
映像は「ヤード系輸送」の全廃直前の姿で、コンテナ車も登場していましたか?
1つ1つの作業がすべてアナログで何かするたびに人手を必要とするシステム
しかも登場する人物すべてに人件費や労務の手間がかかってきてる
こんな事やってたら利益なんか出ずに赤字になっちゃうのは当然ですね
当時の日本は発展途上国みたく人件費が安いので、赤字ではなかったみたい
(2022年8月31日投稿)
米国との開戦が、1941年(昭和16年)12月8日でしたから、米国との開戦の年に(同じ年に)制作された作品、ということになるのでしょうか(米国との開戦の直前に制作された?)。国策映画になるのでしょうか?(制作、鉄道省)、ただ、記録を残す目的のみで、制作されたのでしょうか、国鉄マンの姿を記録することで、何かを(効果を)狙った?、勤労意欲の高揚とか?、。映像に映られた方の中にも、赤紙を受け取られて、出征されて行かれた方もおられたのでしょうか。
貨物輸送の主力が、まだ、鉄路であった時代の作品ですね。
一応、国策啓蒙ではありますがあくまで鉄道の意義を伝えるのみの作品かと。
あと太平洋戦争とは言いますがこの時点で中国とは10年近く戦争してますし、朝鮮や満州樺太でも日本による鉄道運営をしていたので今のJRとも存在が違ってます。
(日中戦争は1937年からですが実質今のウクライナや中東の様な状態を中国東部で行なっていた)
鉄道現場だけでも理解を深めてもらうという意図ではないかと。
戦前の鉄道員は律儀で真面目な感じやなぁ😐 戦後の労働運動とは何だったんだ⁉️
バックは日本共産党、ヤツらの行動原理は国を困らせる事にある。
アカにハマるかハマらなかったか
この時代は鉄道省の役人だからね・・・戦後も特殊法人の国鉄でなく、鉄道省や鉄道庁とかで政府機関だったら違ったかもだね。
単純にソ連や北朝鮮からの工作活動の、つまりは社会党共産党なんかの餌食になった。戦後復員兵の職場として受け入れ先になり、職場環境がきつい尚且つ比較的給与が安いなんてのを利用、尚且つ職員数が多かったから赤思想が拡げる効率が良いので社会主義活動の餌食になった結果。また、GHQが日本国を弱らせる意図的な赤化、GHQ自体がアメリカ共産党の連中が多い時代背景なんかもあった。
16:08 Japanese humpyard has no retarders to slow traincars down.
bakes are used, and they are locked in position using a metal spike.
Early (1900-1930) hump yards in the US used *hump riders* as well, I can't remeber but I think one of the first US hump yards to use retainers was on the New Haven I think in the very late 1920's/early 1930's.
83年前
今から約8年前の映像ですね
85年前・・・・・
(撮影時期を勘案しても)
この頃はホークリフト無いんだね。
隣町は中規模な町で工場地帯があり、だいたい昭和40年代前半にはリフトがあったみたいだから、昭和30年代後半辺りから出回り出したんじゃない?
動画に出られた方で
流石にご存命の方はいないか…
85年前ですから、
普通にでもせいぜい使い走りの小僧くらいの年齢じゃないと居られないでしょうね。
その前に戦争でかなりの人手を取られましたから。
Is this Pre WW2 or Post WW2?
1941.
紙の時代、
操車場は、面倒くせえ
突放、今では、間違いなく、禁止です。
「持って来た」って・・・主語も目的語もおかしいだろ
無
30:12 安全報國銃後の護り